堀江貴文の「ゼロ」

堀江ゼロ

堀江貴文の「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」を読みました。

堀江さんの書籍は、「徹底抗戦」「刑務所なう。」しか読んだことが無かったのですが、「ゼロ」は、明らかに異質な空気を醸し出していてか、手に取らずにいられませんでした。

天変地異を経験した時代の寵児が、どのように思考し、次なる一手をどう表すのか、とても興味深く前のめりな感じで読ませてもらいました。メモを読んで興味が湧いた人は、手に取って読んでくださいね。

以下、自分の中で「引っかかり」のあったコトバです:

ネットユーザーからは「ホリエモン」の愛称で呼ばれ、2005年に出馬した衆議院選挙では、たくさんのボランティアスタッフや若い有権者の熱い支援を実感することができた。選挙には敗れたものの、会社は相変わらず順調で、なにも問題ないように思えた。さらに大きな夢を実現しようと、ひたすら前に進んでいた。ところが2006年の1月。僕は東京地検特捜部から強制捜査を受け、証券取引法違反の容疑で逮捕されることとなる。ライブドアの前進である有限会社オン・ザ・エッヂを設立してから、ちょうど10年後のことだった。

——————–

思えば僕は、ずっと前から知っていた。
働いていれば、ひとりにならずにすむ。
働いていれば、誰かとつながり、社会とつながることができる。
そして働いていれば、自分が生きていることを実感し、人としての尊厳を取り戻すことができるのだと。
だからこそ、僕の願いは「働きたい」だったのだ。

——————–

人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。つまり、「掛け算の答え」を求めているあなたはいま、「ゼロ」なのである。そしてゼロになにを掛けたところで、ゼロのままだ。物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなければならない。まずはゼロとしての自分に、小さなイチを足す。小さく地道な一歩を踏み出す。ほんとうの成功とは、そこからはじまるのだ。

——————–

そしてなにより、パソコンは圧倒的に自由だった。ファミコンのように誰かがつくった世界で遊ばされるのではなく、自分が遊ぶ世界を自分の手でつくること(プログラミング)ができる。コンピューターの技術は日進月歩で進化を続け、この先どうなるんだろうというドキドキも強かった。

——————–

「できます!」即答だった。
それなりに大掛かりな、本来なら業者に委託するほどのシステム移植だ。やったこともなく、できるかどうかはわからないけど、大きなチャンスだと直感的に察知した。ここで断るなんてありえない。
そこからおよそ1ヶ月、試行錯誤を繰り返しつつも無我夢中でプログラミングしていった。ご飯のときも、お風呂に入っているときも、ずっとシステムのことばかりを考えていた。中学2年生、14歳のときのことである。
作業が無事終了し、受けとった報酬はおよそ10万円。中学生にとってはかなりの大金だが、金額のことはどうでもよかった。
僕にとってなによりも大きかったのは、自分の能力を生かし、自分が大好きなプログラミングを通じて誰かを助け、しかも報酬まで得ることができた、という事実だ。新聞配達のように、誰にでもできる仕事ではない。クラスの友達にできないのはもちろん、うちの両親にもできないし、学校の先生にも、塾の講師たちにもできない。プログラミングが得意な僕だからこそ、直接使命を受けた仕事だ。
「そうか、働くってこういうことなんだ」。

——————–

こうやって書くと、いかにも血の滲むような努力をしたように思われるかもしれない。しかし、そんな意識はまったくなかった。実際僕は、どんなに追い込まれても毎日10時間の睡眠を確保するようにしていたほどだ。要は起きている14時間をすべて ー これは食事や風呂も含めて ー 勉強に充てればいいのである。

——————–
 
仕事でも人生でも、もちろん異性関係でも、キョドってしまうのは、性格の問題ではない。ましてや、ルックスなど関係ないし、学歴や収入、社会的な地位とも関係ない。これはひとえに「経験」の問題なのである。
そして経験とは、時間があたえてくれるものではない。
(中略)
経験とは、経過した時間ではなく、自らが足を踏み出した歩数によってカウントされていくのである。

——————–

あらゆる人の一生とは、小さな選択の積み重ねによって決まってくるのだと思っている。
チャンスだけは誰にでも平等に流れてくる。
目の前に流れてきたチャンスに躊躇なく飛びつくことができるか。そこが問題なのである。
僕はこの「チャンスに飛びつく力」のことを、向上心とか目的意識とか、そんな堅苦しい言葉で語りたくない。もっとシンプルな、人としての「ノリのよさ」だと思っている。フットワークの軽さ、好奇心の強さ、そしてリスクを承知で飛び込んでいける小さな勇気。それらの総称が「ノリのよさ」だ。
チャンスの見極めかたがわからない?
桃と葉っぱの見分けがつかない?
僕に言わせると、その発想が既に「ノリの悪さ」を表している。チャンスを見極める目なんて、必要ないのだ。少しでもおもしろいと思ったら、躊躇せずに飛び込む。そうしないと、せっかくやってきたチャンスは流れる桃のように過ぎ去ってしまう。

——————–

大切なのは順番だ。
人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。
順番は逆で、「営業に没頭したいから、仕事が好きになる」のだ。

——————–

突き抜けられる人と、そうでない人の違いは、次の一点に尽きる。
物事を「できない理由」から考えるか、それとも「できる理由」から考えるのか。
それだけだ。
突き抜けられるかどうかは能力の差ではなく、意識の差なのである。

——————–

やりたいことは全部やれ!
ストイックにひとつの道を極める必要なんてない。やりたいことは全部やる。節操がないとか一貫性がないとか批判されようと、全部やりきる。ぼくはそうして生きてきた。
なぜなら、人は「ここでいいや」と満足してしまった瞬間、思考停止に突入してしまうのだ。
(中略)
常に新しい分野に目を向け、新しい出会いをつくり、新しい情報を浴びて、思考と行動を繰り返す。止まることなく、動き続ける。

——————–

経営者となって以来、僕は感情で物事を判断しないように、常に自分をコントロールしてきた。感情が揺らぎそうになったときほど、理性の声に耳を傾けた。悩むことをやめ、ひたすら考えることに努めてきた。そう、多くの人は混同しているのが、「悩む」と「考える」の間には、決定的な違いがある。
まず、「悩む」とは、物事を複雑にしていく行為だ。人は悩もうと思えばいくらでも悩むことができる。そしてつい、そちらに流されてしまう。
一方「考える」とは、物事をシンプルにしていく行為である。複雑に絡み合った糸を解きほぐし、きれいな一本の糸に戻していく。それが「考える」という行為だ。

——————–

努力という言葉には、どうしても古くさくて説教じみた匂いがつきまとう。できれば僕だって使いたくない。でも、挑戦と成功の間をつなぐ架け橋は、努力しかない。その作業に没頭し、ハマっていくしかないのである。
成功したければ挑戦すること。
挑戦して、全力で走り抜けること。

 

Link: 堀江貴文の「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」


Aloha | BOOK LOG

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です